2019年1月23日(水) 覚書

思えば、祖母は競馬とそれなりに縁のある女性でした。


(本人の言葉で言うと)女学校を卒業後、和歌山県庁で勤務することとなった祖母は、10代の終わりか20代の初め頃だから…1950年前後ということになるのか、紀三井寺競馬場(1988年に廃止)の出納係の一員として働いていたことがあったそうな。学校を出たばかりの小娘が触るには大き過ぎる金額の札を数え、運ぶのは非常に緊張したとよく言われました。現代と違って、与えられる仕事は端の端、お金を数え、運ぶの2点のみですから、当時のオッズ算出方法も何も知らなかったのは残念でしたがそんなものかというところ。


出張で北海道に行くこともあったとか。税金で旅行かいな!けしからんなと僕が言うと、「当時はそれでも大丈夫やった鷹揚さもあったし、仕事と遊びと両方のバランスを考えて出張を組んでたから誰も文句を言わんかった。○○円かかりましたって領収書出したら、必ず決済されたもんや。楽しかったで。今の時代では無理やろうけどな。」と。分とか、度を知る世代だけあるなと思いました。


もしかしたら、今は高知で活躍している雑賀正光調教師(1952年生まれ)を知っていたりしないか?と思ったり、木村健調教師の父、木村隆騎手(1949年)を知っているか?と思ったりもしましたが、考える間でもなく、祖母が勤めていた頃の前後に生まれたお二人ですから、聞いても知るわけなかったでしょうね。少なくとも、現役のことは知らないのだろうと思います。

それを思うと、昭和6年、1931年生まれって半端ねぇな…と改めて思う次第で。米寿を迎えられたというのも、金婚式、ダイヤモンド婚式も超えていけたのもすごいな。じいちゃんは1925年の大正14年生まれ。曾孫(僕から見ての甥と姪)からすると未知の生物だよなぁ…。


話が逸れました。


自ら、騎手やら厩務員、調教師との思い出話をするときは、特に、厩務員の話題が良く出てきましたね。ばあちゃんの言葉では馬丁(ばてい)さんでしたが。その馬丁さんたちに若い姉ちゃんってこともあり可愛がってもらってたみたいです。一部の馬主さんにも。馬に触らせてもらって、馬が好きになったとよく言ってました。


それだけに競馬には理解のある方でした。以前、僕がある程度収入あったときは有馬記念の馬券を買うこともありました。今のつましい生活になってからは、馬券を買うことに良い顔をされなかったので秘密にしていましたが。


民法の競馬番組は見ませんでしたが、NHKで放送されるGⅠはよくテレビをつけて観戦していました。キタサンブラックは記憶に残せていたようです。NHKで放送のあるGⅠがある日曜日は、よくソファーに座らされていましたね。じいちゃんばあちゃん、僕の三人で観戦していました。きっとこれが競輪なら競馬ほど理解されてなかったんだろうなぁと思ってみたり。


そんなばあちゃんは、昨年12月21日に入院します。本人に伝えた入院の理由は「糖尿病の血糖値コントロールが上手くいってないから、落ち着くまで少し入院しよう」としましたが、本人に伝えなかった理由は、腫瘍マーカーが異常な値を示したから。結局、きちんとした検査が出来るだけの体力が戻らなかったし、死後の解剖も拒否したので直接的な死因は、はっきりと癌と決まったわけではありませんが、おそらくは腸を中心としてだいぶ蝕まれていたのではないかと思います。


年末年始、ばあちゃんは、どうしても家で正月を迎えたいと言い出し、無理やり外泊許可を取ります。12月31日に迎えにいったとき、当直医から長々と説明を受けました。どういう状態になったらすぐに戻ってきてくれ、など。本当は自宅に戻ったらダメだったんでしょうが、ここは末っ娘のワガママを通す性格だけに、医者も折れて「三日だけね」と許可を出したのでしょう。


今年1月2日、腸から鮮血が出たのでしょう、トイレが真っ赤に染まるということがありました。親戚が多く集まっている日なだけに逆にスムーズに車に乗せ、病院に戻ることが出来ましたが、そのときは座席に座るのもしんどいと、後部で横たわったままでした。


病院に戻り数日は問題ありませんでしが、1月7日意識を失います。強く呼びかけるとギリギリ反応する程度の昏睡一歩手前。この日、和歌山市内から職場に向かい、あと10分ほどで到着というところで病院からの電話を受け、とんぼ返り。最低限の出社時間で許してもらう許可を取って病院へ。この日から僕と母が病院で長時間おばあちゃんと過ごす日が多くなりました。泊まり込みも許可をもらったりね。夜中になると「薬を塗ってくれ」「喉が渇いた」と何度も起こされますが、赤ん坊を育てる母親はこういう気持ちで我が子が泣き出したら対応するのだろうな、と思いながら。このとき、だいぶ先祖返りが進んでいるし厳しいと思っていました。


1月10日、まさかの意識回復。僕は諦めていましたから、また言葉を交わせることに大きな感動を覚えました。母は仕事を休んでずっと側にいるとのことでしたので、僕は甘えて「おばあちゃん、仕事行ってくるで」と声をかけ、ばあちゃんは「気を付けてな」と横たわったまま小さく手を振って見送ってくれました。


その後、食事を摂り始め、点滴の総量も減り、そろそろ次の一手が打てるところまで来たと思いながら喜んでいたのですが。


僕は結局、1月17日に「仕事行ってくるで」「気を付けてな」のやり取りが最後となりました。


1月19日、病院から肺炎の疑いとの連絡。これが夜の7時。この夜はどうしても抜けられない仕事だったため、夜の9時まで仕事して、終わってすぐ抜け、病院着が10時30分くらい。このときは落ち着いているように見えたのですけどね…。深夜には仕事を終えた弟も駆けつけ、ばあちゃん肺炎かぁ…と。でも、1度ヤマを越えたので、今回も大丈夫と、どこかで楽観していました。その帰り道に深夜診療をしているところで受診。熱が39度あって、ばあちゃんも大切だけど、僕もなんとかせなあかんな、とのことで日曜日はゆっくりさせて頂いた次第。ごめんなさい。まだプチケチャまとめてませんね。週末までには必ず。


1月20日、スマホを見るにも画面が目に入ると吐き気がするので食事もとらずひたすら睡眠。馬券は目に入った馬の単勝を。当然のようにハズレ。今見返すと、シャケトラの直線抜かせないの熱かったですねえ。


1月21日、前日ずっと寝ていたせいか夜中に何度も目が覚める。スマホの着信音は最大音量。思えば、僕はこのとき何か感じ取っていたのかもしれません。普段は着信音を消して寝ますので…。

そして午前7時20分、泊まり込みをしていた母からの電話で亡くなったことを知る。

死亡診断書は、家族全員が揃ってからの死亡確認をした午前8時25分になっていますが。


それから葬儀屋さんに電話。今回スムーズだったのは、じいちゃんばあちゃんはあらかじめどこの葬儀屋さんで弔ってもらうのか決めていてくれたので、そこに連絡を入れると実にスムーズに事が進んだこと。この点でのしんどさは無かったです。


午前12時前、ばあちゃんと共に自宅に戻る。手を握ったら、安心してよく眠れるかな?と思って触れた手は、冷たいなって印象でした。


その後は親戚が来たり、弔問客が来たりでした。あまり記憶がありません。


1月22日、お通夜。僕が一生思い出しては泣いてしまうのかもしれないのは、僕がまだ幼稚園?小学校低学年?の頃、冬の晩に寒いだろうということで一緒に寝ているときのこと。朝方6時頃目が覚めて寒いのでおばあちゃんにくっつくと、目を覚ましたおばあちゃんが「手が冷たいやんか。ここであっため」と、太ももに挟んでくれたこと。おばあちゃんはまた一寝入り。僕は手があったまったし、もう起きたいし、布団から出たいなあと思ってましたが、おばあちゃんを起こしたら悪いので身じろぎせずにいたら、いつの間にか寝ていました。この記憶が強烈に戻ってきて、人生で初めて眼鏡を涙でドロドロに汚しました。一度汚れると、油汚れのようになかなか汚れが取れないことを知りました。


あと、お通夜のとき近所のおばちゃん(といっても、もう85歳のばあさんですが)が弔問に訪れて下さって、その姿を見たとき色んな記憶がわーっと一気に戻ってずいぶんと泣きました。ばあちゃんとそのおばちゃんは女学校時代の先輩・後輩でよく二人で旅行に行ってました。そして1月21日は病気平癒のお守りを買ってきて下さっていたとのことですが。そのときにはもう亡くなってたんですよね。上手くいかないもんです。


そのおばちゃん、大金持ちで土地収入だけで恐ろしい金額の年収を稼いでいますが、2人娘のうち1人を若くして亡くし、もう1人は今も一緒に住んでいますが未婚のまま。人生って何が幸せなのだろうかと考えさせてくれた方でもあり、ばあちゃんと本当に仲良くして下さった方でもあり、またご縁を新たに仲良くしていこうと思いました。


1月23日、告別式。思い出を頭から排除するのに必死でした。そして、お棺の蓋をする最後の別れのとき、ばあちゃんの顔は直視できませんでした。身震いするくらいには泣いてましたが、顔をじっと見ていたらどうなっていたか…。


斎場に向かうマイクロバスから見る景色と、じいちゃんの顔は見たことのないものでした。


斎場でじいちゃんが点火スイッチを押し、これでもう後戻りは無いなと思ったときからは多少冷静でした。以前誰かが「美人もそうでなくても、一皮むいたら同じ」というようなことを言ってたのですがとんでもない。やっぱり骨だけなのと、肉もあり皮もあり、姿かたちがヒトとして認識出来る状態とそうでないのは全く違うじゃないかと。


お骨拾いのとき、袂に入れたはずの六文銭が見つからない。わざわざ自宅でこのときのために用意し、今回焼き終わったあとに残ったのをお守りにするはずが…。斎場の担当者曰く、頭に近い方が温度が高いので、足元のは残りやすくても、頭に近いところのは残りにくいのだとか。後学のための知識となりました。あと、六文銭をもらいにお遍路さんかどこか、そういうのがあるお寺に行かねばな、と。じいちゃんのも僕のもありますけど、おとんおかんのが無いので。弟や妹など、年下の者たちの分は縁起でもないので準備しませんけどね。


代わりのお守りはペースメーカーの配線と、お数珠の焼け残り。財布に入れて肌身離さず持っておきましょう。母や弟にも分けても何か一つくらいは手元に残るでしょうから。


初七日の法要を終えた後は疲れ切りまして、少し昼寝をして今に至ります。明日からは、ばあちゃんの行政上の手続き、そしてじいちゃんのこと、四十九日(七七日)の日取りをどうするかなど、やるべきことは多いですが、日常を取り戻しながらまた元気よくやっていけたらと思います。


皆様もご自身、ご家族、縁のある方々を大切にお過ごし下さい。ほなまた。

夢の第13R -それでも競馬が大好きだ-

Twitterで知り合った、愛すべき競馬バカたちが好き勝手に何かを書いていくブログです。参加者はみんな「読んでくれる方が楽しんでもらえたら嬉しい」その一心でやらせてもらってます。少しでも楽しかったなぁと思ってもらえたら幸いです。 author:和歌36@waka36saburohum、プリン大魔王@purindaimaooo、おみ@omi_keiba7752

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